第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭

第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭・フォーラム

2015年12月6日に平和映画祭及び第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭を行いました。2015年は終戦/敗戦70周年の年にあたり、1996年から今泉が赴任しておりますフィリピン北ルソン山岳地帯の首都バギオ市のラジオ局を通しまして、4時間半の歴史と音楽の特別番組を放送いたしました。日本から音楽家のおおたか静流さん、ASUさん、NPO広島アントの渡部朋子さんがボランテイアで参加してくださいました。以下はそのラジオ番組の内容を日本語に訳した報告書からの抜粋です。

フィリピン戦の実態を未だに知らされていない年配の方々に、これからアジアの人々と共に平和なアジアを築いてゆく若い人々に、また、ひとりでも多くの日本人に読んでいただけますよう、皆様のご協力をお頼みしたいと思います。どうぞよろしくお頼みいたします。


報告書全文は以下までご連絡いただければお送りさせていただきます。

今泉光司  lubongbaguio@yahoo.co.jp

報告書抜粋

この文章は2015年12月6日にフィリピン・ベンゲット州バギオ市にあるラジオ局DZWT540で生放送された戦後70周年特別番組「第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭とフォーラム」(“6Asia Pacific International Peace Memorial & Forum”)の収録台本を一部割愛して日本語に翻訳したものです。番組の内容は大東亜戦争/太平洋戦争中にフィリピンを舞台に行われた大日本帝国軍の攻略と占領統治、その間に人々に起きた出来事です。フィリピン大学歴史学博士のリカルド・ホセ教授に解説していただいたインタビューをベースに、13人の戦争体験者、犠牲者の遺族や研究者の話や、身内や人々から伝え聞いた話を、時には個人の意見も交えてお話しいただいたビデオインタビューを素材として構成したものです。ホセ教授も指摘しているように、残念ながら戦争中の多くの出来事は記録がされていません。今回話していただいたお話も70年以上経過した出来事で、話の真偽を客観的に検証することは不可能でした。この文章は、そう言う話を語ってくれた人がいたと言う記録です。そして歴史を通して平和な世界を築きたいと考えている前向きな人々の記録です。

第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭

及び平和フォーラム

2015年12月6日(日)

午前10時-午後2時30分

フィリピン・ベンゲット州バギオ市

DZWT・amラジオ生放送特別番組

アンカー:ALJUN, アシスタント:Cristy Aban

ゲスト:Jimmy Fong, 今泉光司、渡部朋子、

おおたか静流、ASU, Brian Alipin

アジア太平洋国際平和慰霊祭及び平和フォーラムは、戦争を記録し学ぶために、2000年に日比両国のボランテイア活動家によって、元米軍基地キャンプ・ジョンヘイで始められました。キャンプ・ジョンヘイは、1941年12月8日(米国時間は12月7日)に、ハワイ真珠湾攻撃の数時間後に大日本帝国軍によって奇襲空爆された所です。この空爆からd大日本帝国対アメリカ、イギリスを中心とする連合軍との戦争が始まりました。そして1945年9月3日に大日本帝国軍の総司令官山下奉文(ともゆき)大将が同じキャンプ・ジョンヘイで降伏の調印をしてフィリピン諸島での太平洋戦争/大東亜戦争が終わりました。          

戦後70周年の2015年第6回のアジア太平洋国際平和慰霊祭は4時間半のラジオ特別番組を通して北ルソン一円に生放送しました。

アルジュン

皆さん、おはようございます。今日は番組で特別の式典を生中継します。2015年12月6日の大切な日曜日の朝、私たちは第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭を行いたいと思います。

リスナーの皆様、私たちは今日アジア太平洋戦争終戦70周年を記念して放送しています。かの太平洋戦争は大日本帝国軍が1941年12月8日にバギオ市の米軍基地キャンプ・ジョンヘイを空爆したことから始まりました。まず国家を歌いましょう。

フィリピン国歌

「最愛の地」

愛しき地、東洋の真珠。

その胸に抱かれ、

我等の情熱がある。

選ばれし地、勇気の揺り篭。

その地は決して、

侵略者に屈する事はない。

海に、山に、大気に、

そしてその青き空に、

美しき詩があり、

自由を愛する歌がある。

きらめきに彩られたその旗は、

勝利で輝く。

その太陽と星々は、

永遠に輝きを失うことはない。

太陽と栄光と愛ある地。

その地に抱かれし、

我等の至上の人生。

この地に圧制者が現われし時には、

死を持って抗う。

それが我等の喜びである。

アルジュン

 ありがとうございました。北ルソンの皆さんと海外でオンラインストリームを聞いてくださっている皆さん、おはようございます。2015年12月6日、日曜日の朝フィリピンはちょうど10時10分です。さあ今回は皆で過去のストーリーを語り合う慰霊祭です。私たちの愛する郷土の歴史、フィリピンの特にここ北ルソンについてです。番組の中ではアジア太平洋戦争、終戦70周年記念に関しても話し合います。きっと私たちの大先輩である退役軍人の方々は、戦時体験の多くのトラウマをお持ちだと思います。リスナーの皆さん、あなたは第3次世界大戦が起きて欲しいですか?絶対に嫌ですよね。

 今日はここに戦争の話を共有してくださるゲストをお招きしています。私たち、当時はまだ生まれていなかったですが、今日はお話を聞いて戦争が私たちの社会に与えた影響について考えます。さあ、戦争について皆で学んで、2度と繰り返さないようにしましょう。

 この瞬間に沢山のお客様がスタジオに詰めていただいていて圧倒されそうです。わたし、オンエアーの番組中に汗かいてるの初めてです。アハハ。だって沢山の関係者がいるんです。日本とコルデイリエラからボランテイア・アーテイストとスタッフが大勢来ていて、一緒にお話ししてくれます。うれしいですね。おはようございます、クリステイーさん。

クリスティー

 おはようございます、アルジュンさん。そして北ルソンと海外のリスナーの皆さん。今日は午後2時まで特別番組をお送りします。どうか最後までお付き合いいただきたいと思います。

 このアジア太平洋国際平和慰霊祭、通称アピプンは今泉光司さんによって始められました。ボランテイア社会活動家としてコルデイリエラ山岳地帯中心に20年以上活動されています。彼を助ける仲間たちがいます。例えばジミー・フォンさん。こんにちは、ジミーさん。そして私たちと一緒に活動している仲間たちがSDSコンピューター&ビデオ、リサーチメイト、イヤマン、他のボランテイア・ヘルパーさんたちが私たちと2010年から共同主催しています。今年は2015年で6回目の慰霊祭になります。

アルジュン

 はいシスター、2015年まで6回もやって来たんですか。どうもジミーさん。フィリピン大学バギオ校教授ジミーさんがいらしてます。お早うございます。

ジミー

 おはようございます、アルジュンさん、クリスティーさん、そして日本とコルデイリエラからいらしたゲストの皆さん。この第6回アジア太平洋国際平和慰霊祭は日本の非政府組織、特定非営利活動法人サルボンと、二度と戦争を起こさないために「心に平和の防壁を築こう」がスローガンの特定非営利活動法人”音楽は平和を運ぶ“の助成でお送りしています。

 フィリピン大バギオ校のマスコミ学科教員として、ここに参加出来て光栄です。前回まではベンゲット州庁舎や元米軍キャンプ・ジョンヘイを会場として開催して来ましたが、今回はラジオ番組を通してお送りすることになりました。ありがとうございます。今回第6回目になる、第二次世界大戦を回顧し記念する平和慰霊祭です。昨日平和映画祭を皮切りに始まりました。フィリピン大で戦争に関するドキュメンタリー映画を上映しました。一緒に参加してくださったのが日本とコルディリェラから参加したボランティアの皆さんです。

 2本の映画は日本のNPOにより制作されました。最初が「ブリッジ・フォー・ピース」。それは太平洋戦争のフィリピン人犠牲者や遺族のインタビューと、フィリピンに従軍した元日本兵のインタビューを編集したものでした。このインタビューは我々フィリピン人の祖先が被った激しい苦痛を記録していて感情を揺さぶられます。2本目の「ヒロシマ・ナガサキ」は日本の広島と長崎に落とされた原子爆弾に関するドキュメンタリー映画です。光栄なことに日本側のプロデューサー渡部朋子さんが今ここにいらしています。おはようございます朋子さん。

渡部朋子さん

 おはようございます、ジミーさん。参加出来て本当にうれしいです。お招きくださりありがとうございます。私は昨日映画を見てとっても感動しました。それは2つの国の人々がそれぞれの国の話を分かち合うことが出来たからです。私はこのイベントに参加出来て大変光栄に思います。ありがとうございます。

クリスティー

 そう皆さん、朋子さんは映画「ヒロシマ・ナガサキ」を共同制作されました。昨夜彼女がどのようにあの映画を制作されたのか話してくださいました。映画が全部出来上がるまでに長い時間がかかったそうで、すべてボランテイア活動として行ったそうです。今回のフィリピン訪問もボランテイアだそうです。そしてスタジオにはもう2人のお仲間が居ます。おおたか静流さんとASUさんです。

おおたか静流さん

 こんにちは、静流です。お会い出来てうれしい、参加出来て光栄です。私は音楽は平和の架け橋だと思っています。今回は作曲家やシンガーとして活躍中のAsuがキーボードを弾いて一緒に唄います。

ASU

 こんにちは皆さん。ASUと申します。日本で歌手と作詞作曲をしています。お招きくださりありがとう。素晴らしい機会をいただきとてもうれしい。この式典に参加出来て本当に光栄です。ありがとうございます。

アルジュン

 はい、ASUさん。これまでフィリピンに来たことありますか?

ASU

 いいえ、これが初めてです。つい2日前に着いたばかりなんですが、何となく初めてじゃないみたいな気がしてます。子供の頃、僕の学校に沢山のフィリピン人の先生が居たので、まるで昔の町に戻って思い出しているような気分です。

アルジュン

 で、その思い出はもちろん素晴らしいものだった?

ASU

 はい。最高に。素晴らしいです。

アルジュン

 そしてバギオ訪問も初めてですね。

ASU

 はい。おいしい食事にいい人たちばかりで、楽しんでます。

クリスティー

 オーケー。皆さんようこそいらっしゃいました。私たちはいつでも皆さんを歓迎します。皆さんが来てくださることはとてもうれしいことです。このアピプン(慰霊祭)だけではなくて、これが私たちの友情の始まりになりますように願っています。それでは皆さんで太平洋戦争で亡くなった方々のために祈りましょう。アジア太平洋戦争ではアジア23カ国で2000万人以上の人々が亡くなったと言われています。たぶん大東亜共栄圏と言われていた範囲でだと思います。フィリピンでは110万人が犠牲になりました。さあ皆さんで追悼の祈りを捧げたいと思います。

平和の祈り

神様、どうぞあなたの優しさで戦争犠牲者たちを見守りください。私たちは世界が貧困と苦痛から解放されることを夢見ています。世界から復讐と暴力が無くなることを切望し、世界平和をお祈りいたします。戦争被害者たちの苦しみが私たちの心をさいなむ時、どうか彼らに救いの手を差しのべられますように。そして私たちに暴力によって壊されてしまった精神と心と体を癒し慰める能力と信義をお与えください。主よ、あなたが私たちの呼びかけに平和創造者として答える時、どうか私たちと共にお歩みください。あわれみと寛容ともてなしを私たちの子供の平和のためにお恵みください。勇気と忍耐と平静を与えてください。そして私たちの世界の過ちと悲しみにを埋める精神の穏やかさをお与えください。

ジミー

 アピプンにはオリジナル・テーマソングがあります。フィリピンのミュージシャン、ジョーイ・アヤラが作詞作曲してくれました。「オープンハンズ」というタイトルのこの歌を唄うときは、皆に両手を開いてもらいます。何も武器を持っていないという意味です。さあ一緒に唄いましょう。

オリジナルテーマソング

「オープンハンズ」

作詞作曲:ジョーイ・アヤラ

歌:おおたか静流&ASU

Here we are my sister and my brother   

ここで 私たち世界の兄弟姉妹たちが

Now is now the only time we have     

今、今日、この同じ時を生きている

We are in a garden made of open hands  

私たちは 両手を開いてひとつの花園にいる

Peace is all we gather for like flowers       

平和、それは私たちが集めた花束

Peace is all the earth we need to stand      

平和、そこは私たちが守っていく地球

We are like a garden made of open hands    

私たちは両手を開いて集う世界のもろびと達

**                        

Peace is here  and Peace we know        

平和がここに 私たちが知っているその平和とは

Is like a garden   That we sow           

まるで花庭 様々な花が咲いている

With open hands  And open hearts       

両手を開いて 気持ち通い合わせ

And open minds                     

心を開こう

We grow strong by sharing dreams and visions    

私たちは強く成長する 夢と理想を語り

Richer as we share the things we know        

豊かになり 共有し受け入れる

Treasuring the things we make with open hands  

守るべき宝は 両手を開いて得たもの

Peace is how we love despite the suff'ring     

平和、それは苦しみを越えて愛すること

       

Peace is why we harvest what we sow        

平和、それは私たちが歴史から得られたもの

Peace is when we live a life of open hands      

平和、それは手を開いて共に生きるこの時

**  


クリスティー

 はい。「オープンハンズ」をお送りしました。アルジュン、顔がくしゃくしゃでべそかいてるみたい。私が初めてこの歌を聴いたのは、キャンプジョンヘイ(バギオにある元米軍基地)の花園、ベル円形劇場でした。私はもう泣きそうでした。アルジュンさんはどうでした?

アルジュン

 …はっは。

ジミー

 本当です。過去の平和慰霊祭で私たちはいつもロウソクをともし、手を開いてこの「オープンハンズ」を唄いました。ジョーイ・アヤラさん、美しい曲をありがとう。さて明日の月曜日に平和映画祭はベンゲット州マンカヤンのセント・ジョセフ・パリッシュ教会に行きます。午後4時から始まります。日本のゲスト・アーテイスト、おおたか静流さん、ASUさん、渡部朋子さんも行きますよ。そして火曜日。12月8日(火)の休日は同じプログラムの平和映画祭がベンゲット州アバタンのアワ・レデイー・オブ・パーペチュアル・パリッシュ教会に行きます。朝9時30分からです。

クリスティー

 ノーです。絶対に戦争はしない。ラジオをお聞きのご家族やお友達の皆さん、これから平和フォーラムを始めます。番組は少し前に始まりましたがこれからが本編の始まりです。初めに今泉光司さんの話を聞きましょう。このアピプンの発起人です。彼があちこちにインタビューに出かけて行きました。純粋にボランテイア活動家です。

今泉光司

 私たちの放送を聞いてくださり、ありがとうございます。そしてはるばる日本からアピプンに参加するために来てくださったゲストの皆さん、ありがとうございます。渡部朋子さん、おおたか静流さん、ASUさん。そしてマニラのNGO所属のマーサさん、地元歌手のブライアン・アリピンさん。それから沢山のボランテイア・スタッフが助けてくださっています。ありがとうございます。

 今年は戦後70周年記念の年です。戦争中は、たぶんこのスタジオに居る全員がまだ生まれていなかったと思います。だから私は大日本帝国が引き起こしたあの戦争について学ぶためにフィリピンに来ました。当時私はフィリピンであの戦争中に何が起きたのかについて、ほとんど何も知りませんでした。特にフィリピンに来た1996年から1997年頃は知らなかった戦争の話を聞いて驚かされました。私が戦争のことを知るにつれて、いったい日本人はどうやって謝罪が出来るのか、どうしたらあんな残虐行為を許してもらえるのか分かりませんでした。何で日本軍はあんな残虐行為をやってしまったのか、私は理解に苦しみました。

 そして私はつくづく戦後に生まれて幸運だったと思いました。もし戦中に生まれていたら、大日本帝国軍兵士にならなければならない。そしてフィリピンに行かされて残酷なことをさせられたかもしれない。私はそんなことしたくないし、誰も殺したくないです。しかし大日本帝国軍人は命令に対して「ノー」とは言えない。兵士はたとえやりたくない事でもやらなければならない。軍人は命令に従わなければならない。だから私は戦争に関してインタビューをして学んでいる時に、自分はつくづく当時生まれていなくて良かったなあと思いました。

 日本の戦後世代の一員として戦没者の方々に心より謝罪とお悔やみを申し上げます。私たちはアジアの人々と平和的な関係を作って行きたいと思います。今回リカルド・ホセ教授が1941年から1945年までの太平洋戦争全体について、何処で何が起きたのかとても分かり易い説明をくださいました。私たちはその説明に沿いながら、途中に様々なインタビューを入れて進めて行きたいと思います。皆さんインタビューに自由なコメントをお願いします。

アルジュン

 オーケー、それではジミー教授とクリスティー、そしてリスナーの皆さんと番組を進めて行きたいと思います。みなさんは過去の戦争で、どうしてそんなに沢山の日本人が関わっていたのかと不思議に思っているかもしれません。「山下」という名前は今でもフィリピンでは有名です。しかし日本人は今、精力的に平和を提唱しています。クリスティーさん、そうですよね?

クリスティー

 そう、日本人とフィリピン人、そして世界の国々が助け合うのはとてもいいことです。誰かが戦争を始めても誰も文句を言わないのは良くない。私たちが共にやるのは、2度と戦争を繰り返さないために、戦争を皆で記憶することです。

アルジュン

 そう、クリスティーさん、ジミー教授、コウジさんの当時の話は明確でしたね。旧日本軍のやり方は、もし男に生まれたら、あなたは必ず軍隊に入らなければならない。そして軍隊では、自分で考えること、を許されていない。大日本帝国軍の一員として、あなたの使命は命令に従うことだけです。戦争が宣言されてから、もしフィリピンに派遣されて、命令に従わなかったら、あなたは大日本帝国軍によって処罰されていただろう。コウジさん、なるほど分かりました。もしも軍に従わなかったらね。戦争当時、平和を主張し、戦争に行かないという日本兵には大変厳しい処罰があった。当時全ての日本人にとって唯一の選択肢は、上官からの命令に従うことだけだったんですね。

クリスティー

 オーケー、それでは戦争の話に行く前に日本から来たボランテイアの皆さん、おおたか静流さんとASUさんに歌を歌っていただきましょう。大きな拍手でお迎えください。

ASU

 ありがとうございます。この歌は多分多くの国でみんなに愛されている数少ない曲のひとつです。そのタイトルは「アメイジング・グレイス」です。


スタジオライブショー

アメイジング・グレイス

おおたか静流&ASU

Amazing grace,

how sweet the sound

that saved a wretch like me.

I once was lost, but now I'm found,

was blind, but now I see.

私は 迷い子

ただ 長い道を

歩き続け 求め続け

ここまで来た

まばゆい 光の中

あなたを見た

それは希望 それは夢

永遠の誠


ジミー

 さあアジア太平洋戦争の番組を続けましょう。フィリピン人にとって、第二次世界大戦というのもよく知られた言い方で、フィリピンだけではなくもっと広い範囲の戦争でしたが、アジア太平洋戦争という言い方も出来るんです。

 フィリピン大学デリマン校にアジア太平洋戦争について研究された著名な学者がいます。リカルド・ホセ教授です。教授は日本に行って勉強し、バギオを含む多くの場所を訪ねて1941年から1945年まで間に何処で何が起きたのかを調査研究しました。ホセ教授の最初のインタビューは戦争が起きる前のフィリピンから始まります。そう1941年以前のフィリピンはアメリカの植民地でした。そして大日本帝国が後からやって来たのです。

クリスティー

それでは教授の話を聞いてみましょう。何故太平洋戦争が始まったのか。

ジミー

インタビューを聞きますが、これは今泉さんによって英語で行われました。英語のインタビューを聞いていただいた後に私たちがイロカノ語で説明しますから、聞いていてください。


リカルド・ホセ

歴史学博士

フィリピン大学デリマン校教授

Part1

(なぜフィリピンが戦争に巻き込まれたのか)

 フィリピンは当時アメリカから与えられたコモンウェルス(米国の連邦内の自治領)政府でした。すでに独立を準備してましたが,まだ完全な独立国ではなかった。まだアメリカの植民地でした。1935年から始まりました。コモンウェルス政府の根本的なテーマは国防です。当時周辺に敵はいませんでしたが、いかなる侵略者が現れても守ると言う自衛システム確立がテーマでした。1935年から1941年までは防衛力の向上であり、フィリピン人がフィリピンを防衛すると言う事がテーマでした。 

 何故戦争が起きたのかにはいくつかの理由がある。もちろん基本的には日米間の外交関係が行き詰まり、日本はアメリカの要求を受け入れなかった。米国は日本に当時フランス領だった南インドシナ(ベトナム)からの撤退を要求した。しかし日本は中国の権益をも狙っていたのです。

 広域的には、日本は中国との紛争と東南アジア全域との2つの地域に進出していたが、この時日本は欧米諸国が植民地支配していた東南アジアへ侵攻しました。大日本帝国政府はベトナムや中国からの撤退(ハルノート)を拒否し、米国は東南アジアの石油と鉱物資源の輸出を禁止した。そして大日本帝国は米国との戦争を決断した。東南アジアは鉱物資源が豊富でした。オランダ領東インド(インドネシア)には大日本帝国が必要としていた石油がある。マレー半島にはゴムが豊富だ。これも帝国が戦争遂行に必要としていた。 

 フィリピンにも鉱物資源スズなどがあった。またフィリピンは東南アジアの中心で戦略上重要な位置にある。日本がマラヤやシンガポール、インドネシアを侵略する時にフィリピン海域を必ず通らなければならない。フィリピンは米国の植民地で当時米軍基地もあった。そうした経緯からも、日米間の国交が決裂した1941年に日本は開戦を決断し、真珠湾や東南アジア各地に同時奇襲攻撃作戦を展開した。

 フィリピンから見ると、何故フィリピンがこの戦争に巻き込まれたかの理由はいくつかある。第一に米国領だったので米軍基地があった。その米軍基地を日本軍は無力化する必要があった。インドネシアに石油を取りに行かなければならないから、シンガポールやマレーにいた英軍やオランダ軍を叩いたように、フィリピンの米軍も先に叩く必要があった。第2の理由は、フィリピンが米領であるなしに関わらず、戦略上の重要拠点だったからだ。米軍がいなくても帝国軍はフィリピンを押さえる必要があった。タイと同じように帝国軍が駐留しに来ただろう。タイは何処からも侵略されてはいなかったが、大日本帝国軍がマレー半島に行く時の足がかりに駐留する事を許した。もしフィリピンが独立していたら、やはり同じように帝国軍はフィリピン国土を使わせるように交渉して来ただろう。第3の理由はフィリピンには大日本帝国が必要としていた資源があった。銅やスズ、マンガン、木材、マニラ麻は日本の戦争経済に重要な資源だった。この3つが大日本帝国がフィリピンを重要だと考えた理由だった。

クリスティー

 ジミーさん、自分が自国の歴史についてそんなに良く知らなかったことに気付かされました。私は何故日本軍がフィリピンにやって来たのか、3つの理由がどういうものなのか、今わかりました。

アルジュン

 ジミー教授、クリステイーさん、私たちは今やっと分かったって感じですね。当時日本やアメリカやその他フィリピンに興味を持っている国々がフィリピンをどんな目で見ていたのか。フィリピンは大変豊かで祝福されてた国なんですね。しかしアメリカも日本も、もしフィリピンが他の所にあったら来てなかったかもしれない。私たちの場所って重要拠点なんですね。戦略上重要なバギオ市と比較してみましょうか。バギオは山岳地帯の入口、商業の中心地で他の地域に行く幹線道路と繋がっている。だからここバギオは戦略上重要なんです。バギオを通らずに他の地方には行けません。フィリピンもそんな風に重要なんですね。私たちはとても豊かなんです。だから他国は私たちの木材などの資源を狙っていたんです。何故フィリピンが戦略上重要なのか、沢山の理由がありました。

クリステイ−

 そして1941年12月8日を迎え、真珠湾奇襲攻撃がありました。

ジミー

 はい。アメリカでは12月7日と言われていますが、日付変更線のせいでフィリピンはハワイよりも1日早い。日本の戦闘機隊はバギオやフィリピンの他の地域にもほとんど同時に来ました。1941年12月8日の早朝で、学校では朝礼をやっていました。この話は当時生きていた年配者に聞きました。

アルジュン

 そうか。朝礼中に来たのか。

クリスティー

 そう。バギオの米軍基地キャンプ・ジョンヘイに来て、次にクラーク空軍基地、そしてミンダナオに来たそうです。

ジミー

 そう。それがアジア太平洋戦争の始まりだったんですね。

アルジュン

 教授、キャンプジョンヘイと真珠湾って同時に奇襲攻撃されたの?

ジミー

 真珠湾奇襲攻撃のほんの数時間後に別の部隊がバギオのキャンプ・ジョンヘイに来たようです。 

ジミー

 さあホセ教授の説明を続けましょう。日本軍がどんな風に東南アジアに侵攻して来たのか。そしてどのように戦争を始めたのか。


リカルド・ホセ

歴史学博士

フィリピン大学デリマン校教授

Part2

(大日本帝国軍の開戦)

 戦争は1941年12月8日に始められた。真珠湾はフィリピン時間で早朝2時30分に爆撃され、フィリピンにもすぐに知らせが入った。フィリピン国内で最初に爆撃されたのはダバオとバギオがほぼ同時。大体1時間差くらいで空爆されました。ダバオが空爆されたのは、とても繁栄した日本人移民の入植地(マニラ麻栽培の農園など)があったからです。

 ダバオの占領は東南アジア南部進出のために重要な拠点で、オランダ領東インド(インドネシア)攻略には欠かせない要所です。そしてバギオには米軍基地のキャンプ・ジョンヘイがあった。マッカーサーがバギオにいるかもしれないという噂を、当時何人かの日本軍将兵が聞いていた。バギオも市民の町ではなく、米軍基地キャンプ・ジョンヘイが戦略上重要な軍事拠点だった。開戦初日に何が起こったかを見てみると、北のバギオと南のダバオが爆撃された。初日に占領された島がもうひとつあった。バタアン島。島の北側の住民は日米戦争が始まった事も知らされずに、日本軍兵士と戦艦に囲まれて占領された。開戦初日に奇襲攻撃があっただけではなく、すでにフィリピン国土の占領が行われていたのです。フィリピンは当時アメリカのコモンウェルス政府でした。だから我々は宣戦布告は出来なかった。私たちは宣戦布告する公式の権利を持たなかったが、アメリカの戦争に協力した。そしてアメリカが宣戦布告した時、フィリピンは直ちに協力した。

当初大日本帝国軍の軍事作戦は大変速く、初日から同時多発的に各地で始まった。バギオとダバオの爆撃に続いて帝国海軍はクラーク基地を空爆した。そこは米軍の主要な空軍基地だったからだ。米軍はすぐさまフィリピンを近代兵器、最新の戦車や航空機で強化しようとした。それが日本軍が急いで侵攻したかった理由でもあります。何故ならもし遅くなればフィリピン軍の防衛力が益々強化され、日本軍が侵攻出来なくなるからです。

 12月8日は月も良く、潮目も良く、米軍はまだ十分にフィリピン軍を軍事強化出来ていなかったので絶好の進軍日和だった。しかも実際開戦するに当たって、この時期は乾期の始まりです。陸上の軍事作戦は6月までやり易い。雨期が来るまで4、5ヶ月間軍事行動を続けられます。開戦時期に関して大日本帝国軍は季節や気象条件などをよく調べて、全ての好条件が揃っていた。

一方クラーク空軍基地の飛行機は、朝離陸して大日本帝国軍の来るのを見張っていた。また彼らはマッカーサーからの台湾(当時日本の植民地)攻略指令を待っていたが、何の指令も出されなかった。マッカーサーは奇襲前の数時間沈黙していた。そして彼がやっと台湾攻略指令を出した時、最初に偵察機を送った。そして全ての航空機に給油させ、爆弾を搭載させ、乗員を昼食に行かせた。そしてその間に台湾から大日本帝国軍機が飛来し、地上の米軍機を発見し、ほとんどの航空機を初日のうちに破壊してしまった。

 開戦初日にして米軍はほぼ半数の航空機を失い、クラーク空軍基地はむき出しの危険な状態になっていた。そこで残りの飛行機はミンダナオに避難しなければならなかった。これで米軍は実質的にルソン島の制空権を失った。少しの飛行機がフィリピン空軍に残っていたが、到底大日本帝国軍の戦闘機に太刀打ち出来るものではなかった。そこには対航空機用ではない銃器もあったが、旧式で砲弾は日本軍機の飛行高度には届かないものだった。

 開戦初日から大日本帝国軍は優勢に侵攻を進めていた。そして主要上陸隊が到着し、いくつかの小規模隊がラオアグ、ビガン、アパリ、そしてレガスピに上陸し、北部と南部の飛行場を閉鎖させた。南部のダバオは12月20日に、そして24日には南のホーローやスールー諸島も侵略し、フィリピンは北と南の帝国軍によるサンドイッチ状態になった。北部と南部に上陸し、フィリピン東部にも飛んで、実質フィリピンは分断された。また帝国軍は南海のマリアナ諸島のサイパン島、ティニアン島を攻略、パラオ諸島のペリリュー島も攻略した。

 太平洋からやって来たアメリカの援軍はすぐに日本軍に止められた。アメリカ領だったグアム島は24時間で陥落し、約一週間後にウェーク島が侵略された。これらの島々が占領されてしまうと、フィリピンに行こうとするアメリカ軍の航空機は何処を通っても大日本帝国軍が占拠している地域を通らなければならなくなった。オーストラリアを回って行くのは遠過ぎるし、より危険だった。

 フィリピンはその後実質的に数ヶ月間米軍から見放されていた。米空軍がいなくなって以来、米軍のアジア航空戦計画はフィリピンを見放し、オランダ領インドネシアの油田を防衛した。米軍はフィリピン国土と空軍力を失っただけでなく、海軍力も開戦初日に失った。12月22・23・24日に日本軍のフィリピン防衛主力部隊が上陸した。彼らはリンガエン湾やバラール、タヤバス湾の海岸に上陸した。大日本帝国軍が海と空両方で攻撃して来るのに対し、フィリピン軍の兵士たちはあまり訓練されてないばかりか武器も古かったので、数時間後の戦闘でフィリピン軍は退却して行った。

X   X

クリスティー

 なるほどジミーさん、これが戦場の実態だったんですね。大日本帝国軍は最初は凄く強かったんです。彼らは同時多発的な攻撃を素早くやることに成功して一気に攻めたんですね。

ジミー

 だから米軍は最初の数ヶ月で敗退し、日本軍に包囲されたんです。そしてバターン死の行進が起きました。さあホセ教授の「デスマーチ」編を続けましょう。


リカルド・ホセ

歴史学博士

フィリピン大学デリマン校教授

Part3

(コレヒドール島とバターン死の行進)

 マッカーサーは海岸線の防衛が手薄だったので、バタアン半島とコレヒドール島の防衛を命じた。全軍がバタアンとコレヒドールに4月9日まで集結し、結局バターンで全軍が降伏した。米軍は食糧や医薬品が不足し苦しい戦いになった。しかし大日本帝国軍は強かった。米比軍よりも数が少なかったが、米軍がバターン半島全体を防衛しなければならなかった反面、帝国軍は手薄な攻略地を選ぶことが出来た。したがって帝国軍は局地的には勝っていた。またその後シンガポールや中国や日本本土から元気のいい援軍を追加した。しかしバターンの米比軍防衛隊はとても少ない食糧、少ない医薬品、疲れた体で4ヶ月間応戦した。そして帝国軍が4月に総攻撃を仕掛けて来た時、たちまち前線は崩れた。まだ交戦したかったけれども、多くがすでに疲れ果て病人も多く、バターン防衛軍は4月9日に降伏した。

 その後バタアン死の行進の悲劇が起こるのですが、その前にバタアンにあるパンテイガン川のほとりで深刻な虐殺(Pantingan River Massacre)が行われていた。1,000人近い将校と兵士が首を切られて殺されました。その場所は白骨場として知られていて、今でも多くの遺骨が発掘されています。

 米軍が4月9日に降伏した後に、バタアンの帝国軍はほとんどの捕虜に対し徒歩移動を強要し、それが「バターン死の行進」になった。何故なら兵士を輸送するトラックがなかったからです。バタアンにトラックはあったんですが、すでに米軍によって破壊されていたんです。しかしトラックがあったとしても、兵士たちは多かれ少なかれ歩かされただろう。一日中歩かされ、食糧も水も与えられずに徒歩移動を強要されました。帝国軍は当時そんな大勢の捕虜が投降して来るとは思わなかった。そんな食糧は準備していなかったと言うが、多くの兵隊が日本兵によって殺されている事の説明にはなっていない。千人が殺されたり、バターンのあちこちで首を切られるような深刻な虐殺が沢山行われていた。戦争の初期段階ですでに残虐行為が起きていた。

 コレヒドールの 米比軍防衛隊も1942年の5月6日に降伏しなければならなかった。それがフィリピンに於けるアメリカ合衆国極東軍の公式な防衛作戦の終焉でした。バターンでの降伏が4月9日、そしてコレヒドール島が5月6日です。当時の大日本帝国軍総司令官、本間雅晴中将はコレヒドール島のみの降伏を許可せず、「コレヒドール島にいる兵隊は人質として捕えた。我々はいつまでも戦いを続けることが出来る。フィリピン諸島にいる全軍が降伏しろ」と。コレヒドールの司令官はビサヤやミンダナオの司令官にラジオでそのことを伝え、降伏するように指示した。もしも皆が降伏しなければ、コレヒドール島の我々は殺される。だからビサヤやミンダナオの指揮官は、まだ戦っていないにもかかわらず降伏しなければならなかった。

X     X

クリスティー

 アルジュン、ジミー、私はバターン死の行進しか聞いてなかったわ。「セレクティブ・ヒストリー(選択的な歴史)」と呼ばれる大ざっぱな歴史だったんですね。私たちは一部しか聞いてなかったんです。私たちは死の行進で人々が亡くなったことしか知らなかった。でもその前にすでに千人単位の兵士たちが殺されていたんですね。

ジミー

 そう、私たちは知らなかった。死の行進は写真があったんですが、その事件の写真は見たことがなかった。でも日本軍が何時フィリピンを制服したかは知っていた。数ヶ月後の1942年5月6日に日本軍の占領政策が始まった。

 以前バギオの医者だった故ドクター・チャールズ・チェンが、大日本帝国軍の戦争目的は正しかったと言った。スローガンは「アジア人のためのアジア」。フィリピン人は皆熱狂して帝国軍に協力した。私たちは西洋人に植民地にされたくないからです。

アルジュン

何かちょうどフィリピンに来て、フィリピン文化の独自性を捜している日本人みたいですね。

ジミー

 しかし日本兵の中にも乱暴な兵隊がいるんです。さあホセ教授の説明の続きを聞きましょう。大日本帝国軍のフィリピン占領。日本兵はどのようにフィリピンを征服したのか。


リカルド・ホセ

歴史学博士

フィリピン大学デリマン校教授

Part4

(日本軍政府の統治と第二フィリピン共和国)

 1942年1月までにマニラ、イロイロ、サンボアンガ、バギオなどのほとんどの主要都市が大日本帝国軍に占拠された。帝国軍は大日本帝国軍政部と言われた統制本部を設立した。そしてマニラ入場後に全国に戒厳令を布告、すべての人々の行動を制限し、帝国軍に反抗したものは犯罪者と見なされ処刑されると公表した。

 略奪者も厳しく罰せられると忠告した。帝国軍が入場する前は命令が行き届かなく、各地で略奪が横行していた。しかし軍政部により略奪者を厳しく罰するという命令が反復されてからは、何人かの略奪者が捕まり、見せしめとして炎天下に晒された。別のケースは公衆面前で殴られた。また1942年1月までに少なくとも1件、マニラで2、3人が公衆面前で公開処刑が行われた。後にバギオでも3、4人のフィリピン人が略奪者やゲリラだとして公開処刑された。これが大日本帝国軍の懲罰と戒厳令の方法でした。軍隊式教育と戒厳令を強制したやり方で、公開処刑や公開拷問を行いました。

これはこれまでフィリピン人がやられたことがなかった方法でした。アメリカ軍もやらなかった。処刑はしましたがあのような公開処刑はしなかった。また日本軍は占領した地域の要所に歩哨小屋を設けた。マニラでは橋のたもとや戦略上重要な通りの角に設け、そこを通る人すべてが歩哨にお辞儀をしなければならなかった。フィリピン人はお辞儀をするのに馴れていない。フィリピンの歴史上やらされたことがなかったので違和感のある強制だった。

 開戦前にフィリピン人は日本兵が強い戦士だとは思っていなかった。日本人は安っぽい人々だと思っていた。安い製品を作る人々。いい床屋やいい庭師だったが、いい戦士だとは思っていなかった。フィリピン人は日本人を見下げていた。日本兵がやって来た時、彼らは米兵やスペイン兵と違っていた。米兵やスペイン兵は色が白く背が高い。しかし日本兵の肌の色は違っていた。だから新しい征服者だとは認めたがらなかった。国歌でも「いかなる征服者にも屈せず」と歌っている。この日本兵が征服者なのか?フィリピン人は日本人を新しい征服者と認めることは出来なかった。

また日本兵は、言っている事が分からないフィリピン人にはビンタを与えた。歩哨の前を通る時にお辞儀をしなければならないが、そんな事を知らなかった人は「こらっ」と呼び戻されてビンタ(平手打ち)を食らった。これまでのフィリピン文化にビンタというものはなかった。お辞儀をさせられビンタをくらった。そうしてフィリピン文化は戦前からある日本的仕来り、武士道に反するとして破壊された。

 そして早くも抵抗運動が始まった。バタアンで降伏してもフィリピン人の精神はまだ降伏していない。戦い続けるとして、若人や学生たちは独自のゲリラ組織を作った。いくつかの地方政府、たとえば北イロコス州のアブラン知事は、州政府を山頂に避難させて無傷だった。ケソン大統領のコモンウェルス政府はコレヒドール島に避難し、島が陥落する前にオーストラリアに脱出し米国に避難した。だからフィリピンのコモンウェルス政府はワシントンDCで健在だった。大日本帝国軍政府はそれを無視し、フィリピンが米国に勝利したと宣伝した。戦争は終わったとして、帝国軍は国内の平和を回復させた。略奪もなくなり平静が戻った。しかしその代償は何だったのか。ビンタや殴られる日本兵の暴力。日本兵に反対した人々は逮捕され拷問にかけられた。

 軍事規律を徹底させるために、憲兵隊という軍警察がいた。彼らは反日分子と疑わしきものはすべて逮捕した。書いた手紙は憲兵隊に読まれ検閲され、反日的な内容があれば逮捕され拉致された。マニラのフォートサンチャゴやバギオの古いバヤニハンホテルなどが当時の憲兵隊本部だった。全ての町には憲兵隊本部があった。そしてここが大日本帝国軍統治で最も恐ろしい場所だった。もし憲兵隊に逮捕されたら、恐ろしい方法で拷問にかけられた。

 帝国軍はフィリピンが様々な食品において食糧自給が出来ていない事を知っていた。米も自給出来ずにベトナムやタイから輸入していた。他の製品でも自国では製造しないアメリカンシステム、すなわちアメリカからの輸入経済に依存していた。だから物資が不足している事をすぐに感じた。ひとつの解決策は輸入品に変わる国内産のものを捜す事だ。そして帝国軍政府は米不足がフィリピン全体の問題になる事が分かっていたから、米を増産するために日本から技術者を連れて来た。日本米や新しい品種の種と肥料、そして日本的稲作法を持って来た。しかし農業の結果はそんなに早く出せません。帝国軍は1942年には国土全域を占領した。そして農業改革を始め、統制による経済運営を始めた。さもなければうまく行かない。すべてを管理しなければならない。公正な自由放任主義や自由競争制度は許されない。戦争中だから、全ては管理しなければならない。フィリピンの資源は戦争遂行に必要だ。戦争に必要がない物資は市民に配られるが、それには限りがある。だから全てのものが配給になる。日本や朝鮮、台湾でも同じことが実施されていた。人々を管理するために「隣組」と呼ばれた組合が組織された。食糧や石けん、米の配給券が配られ、同時に地区ごとに住民のチェックが行われた。これがゲリラや反日の活動を監視するひとつの方法だった。その家に誰が住んでいるのか、住人の名前のリストが作られ管理された。配給制度は住民管理の方法だった。名前が隣組のリストになければ食料配給はもらえない。すべてが管理された。


 思想や新聞は検閲され、ラジオや映画も統制され、親米的なもの全ては排除された。教科書は検閲され、民主主義やフィリピン・コモンウェルス政府、アメリカ合衆国、リンカーンなどすべてが教科書から削除され、こうしたすべてを変えなければならないと言われた。しかし新しい教科書を作る時間はなかったから、今ある教科書を検閲して削除した。そして彼らは日本的な思考を持ち込んで来た。教養課程の一部として日本語を教え始め、日本語は学校教科のひとつになった。学校に入学したら好き嫌いに関わらず日本語を勉強し、政府職員も日本語を履修しなければならない。隣組と同時にラジオ体操も強要され、フィリピン人は鍛錬されなければいけないと言った。アメリカシステムでは、フィリピン人は政府を注視し政府がくれる恩恵を考えていればそれで良かった。しかし大日本帝国軍政府は違うと言う。我々はフィリピン人に政府のために働く方法を教える。政府に適合し、鍛錬しなさい。ラジオ体操が効果的だ。体力を付け健康になるだろう。またそれは人々に服従を教えるだろう。

 そして日本語教師を連れて来て日本式教育方法ですべてを教えた。アメリカの休日はすべて廃止。ワシントン大統領の誕生日は廃止され、代わりに日本の休日が実施された。天皇誕生日、日本の建国記念日が休日になり、戦前のフィリピンの休日は廃止された。つまりフィリピン全部を日本化しようとした。フィリピンを日本的な国にしようとした。そして一方ではあなた方が誰なのかを考えよと言った。あなた方はアジアの一員だ。大日本帝国軍政府は我々にアジアの一員である事を再認識するように仕向けた。

郷土に戻れ。自国語を話せ。祖国の文化に戻ってアメリカ文化を捨てろ。自分のルーツに戻れ。これが「アジア人のためのアジア」という考えの一環で、宣伝キャンペーンがあった。伝統に則った自文化を養え。同時に日本文化を取り入れて、米国文化は捨てなさい。平和時だったら効果的だったかもしれないが、戦時で軍事体制が行き渡っていた。軍は日本人教師を派遣し、経済学者や農業指導員が導入された。宗教指導者さえも派遣され、そのすべてを軍が掌握していた。帝国軍がすべてを牛耳っていたので、その裏で破壊の反日活動がはびこった。その中で帝国軍の宣伝キャンペーンが流された。

 ひとつだけフィリピン人の信頼を獲得する方法を東京の大日本帝国軍政府は考えた。米国は1946年にフィリピンに独立を与えると約束したが、大日本帝国はその前に与えようと言った。米軍はもういない、帰っては来ない。だから大日本帝国がフィリピン国に独立を与えよう、あなた達に準備ができているのなら、と言った。軍に協力すれば独立を与えるとちらつかせたのだ。そして軍政府に全面的に協力すれば、彼らはジョージ・B・バルガスを筆頭にしたフィリピン行政委員会を組織すると言った。また知事や市長を各地に置こう。そしてやがてバギオには市長が、ベンゲット州には州知事が置かれた。

 こうした事を軍はフィリピン人主体にやらせた。日常の行政は各地の行政府区が行う事。帝国軍政府は職員に給料を払ったり、人々から税金を徴収したりする仕事で煩わされるのは嫌だったので、日常の些末な事はフィリピン人の行政指揮官が取り仕切った。税金は値上げされ、燃料は帝国軍に供出、すべての武器は軍に徴収される。帝国軍は執行委員会に命令を伝え、執行委員会がその命令を実行する。帝国軍は出来る限り戦前のフィリピン政府体制に近づけようとした。しかし東京政府はフィリピン人の忠誠を獲得するためには独立を与えるべきだと考えた。彼らは1942年にそう言って、一年後の1943年に総理大臣/陸軍大臣/参謀総長の三職兼任した東条英機大将が発表した。もし大日本帝国がやっている事をフィリピン人が理解し、帝国の戦争に同意して協力するならば独立を与えよう。     

 そして1943年5月に総理大臣東条が現状視察のためにマニラを訪れた。多数のフィリピン人が委員会を先導するために帝国軍によって選ばれた。ロウレル、バルガス、レクト、アギナルドなどの著名人がフィリピン独立準備委員会に任命された。彼らの主要任務は新しいフィリピンのための憲法草案作りだ。彼らは出来るだけ早く仕上げろと言われた。1、2ヶ月で簡素な憲法を作れ。委員会のフィリピン人側は、権利条項も入れなきゃ、これも入れるべきだと言ったが、日本側は必要ないと言う。何故ならばそれは戦争と関係ない。そうした話し合いのやり取りが交わされ、結局出来上がったものは風変わりな憲法だった。大変強い大統領と、政府に対する権利よりも市民の義務を重視した憲法、それは大日本帝国に好ましい憲法になっていた。

 またこれも大日本帝国の宣伝活動の一部で、帝国軍はごく制限された選挙を許した。もうひとつ帝国軍が作った委員会はカリバピと言われるもので、政府を支援する組織。ちょうど大日本帝国の大政翼賛会の様なもので、帝国主義支配を補佐する団体だった。単なる政党ではない全国組織の団体で、国民全員参加の大きな政治組織だった。カリバピは選ばれた国民議会の議員たちにゆだねられた。

 1943年9月に新憲法下で選ばれた国民会議の議員たちが、国会で大統領を選んだ。それがホセ・P・ラウレルだった。後にラウレル、ベニグノ・アキノ・シニア他の主要メンバーが東京に招かれ東条と会った。そこで日本側は来月フィリピンに独立を与えると言う。しかしその後フィリピンが米国に宣戦布告し、大日本帝国と条約を結ぶことを条件としていた。大日本帝国側はあらゆる付帯条件をつけたが、ラウレルはそれは出来ない、と承諾しなかった。ラウレル達が帰国すると帝国軍は10月14日のフィリピン独立を公表しあらゆる準備をしていた。

 1943年10月14日以降フィリピンにおける日本軍政府はやめて、ラウレルによる第二フィリピン共和国と呼ばれる政府が誕生した。しかしその上に依然として帝国軍が君臨していた。軍政に加えて占領下の至る所に陸軍第14方面軍と呼ばれるものの存在があった。陸軍第14方面軍はフィリピン全土を占領する陸軍軍隊だった。彼らは憲兵隊を指揮し、全ての陸上部隊とフィリピン部隊を統括した。日本軍政府は第14方面軍の一部だったのだ。

 共和国が独立を果たしたかのようだったが、依然として大日本帝国軍は存在し続けた。一般フィリピン国民にとっては日々の生活でとても小さな変化しか起きなかった。食糧配給制度は続き、街角の歩哨はまだあった。唯一変わった事はフィリピン国旗の政府庁舎掲揚が許可された。タガログ語が重視されたが、カリバピは依然存在し、ラジオ体操は引き続き強要された。郵便物やメデイアの検閲はそのまま終戦まで続けられた。


クリスティー

 なるほど。統治のルールがアメリカやスペインとは違って、全く違う軍事計画に基づいていたのね。ここでリスナーからのメッセージが来ています。「何か私はフィリピン近代史3年間コースの講義を受けたような気がしています」

アルジュン

 本当そうですね。もしこの講義を受けたらおそらく一学期の歴史授業くらいになるんじゃないですか、ジミー先生。

クリスティー

 私は10冊も本読みたくないわ(笑い)。

アルジュン

 そう、それよりもずっと楽だよね。美しい話もあったと思うな。僕の印象は、僕たちがあの時代に戻った感じだったね。残虐行為は付随的なものだった。だって日本兵たちも人間的だったんです。彼らは彼ら自身の心構えやライフスタイルを一緒に戦場に持ち込んで来たんだ。そして彼らがフィリピンに来たときが、自分たちは風変わりだって事を感じる機会だったんじゃないのかな、たぶん。

ジミー

 フィリピン人は当時規律を欠いていました。ホセ教授の説明によると、日本兵が訓練させる、私たちに訓練させたかった。

アルジュン

 ちょっと昔の人たちの、日本人は厳しかったって言う話を思い出してみよう。だって当時フィリピン人は規律を欠いていたって言うんでしょ。それが話の背後にある。だけどもし当時フィリピンが真のアジア国になるために独立を与える、というのが本当に日本人の誠実な意図から来たものだったとしたら、僕はそれはいい方向性だったんじゃないかと思う。

日本人への疑念の中のいい面を捜してみましょう。おそらく彼らは事態を明るい方向に導こうとする良い意図を持っていた。しかしもし彼らが当時のフィリピン人はしつけを欠いていたと言うならば、日本兵たちも欠いていたと思う。何故ならばどうして日本兵はあんな拷問をしなければならなかったのか。


番組は続きますが、これ以降は報告書を参照ください。以下に上記のリカルド・ホセ教授の解説を含む、報告書全体の目次を引用します。


大東亜共栄圏地図

オープニング フィリピン国家「最愛の地」                                

テーマソング 「OPEN HANDS」                                                                             

歌「AMAZING GRACE」 おおたか静流&ASU                                                          

歴史解説1 リカルド・ホセ教授 「何故フィリピンが戦争に巻き込まれたのか」 

歴史解説2 リカルド・ホセ教授 「大日本帝国軍の開戦」                         

歴史解説3 リカルド・ホセ教授「コレヒドール島とバターン死の行進」              

歴史解説4 リカルド・ホセ教授「大日本帝国軍の統治と第二フィリピン共和国」  

インタビュー テディー・コ     映画評論家                       

歴史解説5 リカルド・ホセ教授 「反日ゲリラ活動の躍進」                       

インタビュー ラフィー・カプノ   市民劇場演出家                        

インタビュー 古屋英之助      バギオ生まれの写真家                  

インタビュー カルロス寺岡     北ルソン比日基金代表               

歌「音戸の舟歌」 おおたか静流                            

歌「村の仲間と」 ブライアン・アリピン                        

歴史解説6 リカルド・ホセ教授 「マッカーサー再上陸」                

インタビュー ミルナ・シーズン      べンゲット州立大学講師           

歴史解説7 リカルド・ホセ教授 「反日ゲリラの抵抗と日本軍の虐殺」           

インタビュー ジョアン・オレンダイン   メモラーレマニラ1945会員 

インタビュー アレックス・マラリット   犠牲者の遺族       

インタビュー テオドール・バワン     元ベンゲット獣医師    

歴史解説8 リカルド・ホセ教授 「戦争は多くの年を破壊し人々を殺した」 

インタビュー ボニファッショ・ドウマノップ ワンワン村村長       

歴史解説9 リカルド・ホセ教授 「戦争の歴史から学ぶ」         

歌「VOICE IS COMING おおたか静流&ASU  

ゲスト キドラット・タヒミック     バギオ在住映画監督   

インタビュー ニック・デオカンポ    映画監督        

歴史解説10 リカルド・ホセ教授 「日本人が戦争から学ぶべきこと」  

インタビュー 石田甚太郎        作家            

インタビュー シオニール・ホセ     作家             

ゲスト 渡部朋子   NPOアント代表 映画「ヒロシマ・ナガサキ」制作者 

歌「I REMEMBER YOU」 おおたか静流&ASU         

あとがき

フィリピン地図

最後にサルボン代表今泉光司の報告書あとがきから。


あとがき

私が生まれ育った家の隣に、朝から晩まで大きな声で怒鳴っていた怖いおじさんがいました。庭を通しておじさんの大きな怒鳴り声と、奥さんが叫ぶ声や子供達の泣き声が毎日聞こえて来て、どうして隣のおじさんはこんなに怖いのだろうと幼い私は怯えていました。後になって分かったことですが、そのおじさんは中国戦線からの帰還兵でした。

日本は戦後急速な高度経済成長を成し遂げました。しかし日本が起こした戦争のことは一切語らず、検証せず、反省せず、子供たちに教えずに、今年開戦から75年が経ちました。そうするうちに「日本は敗けたから悪者にされた。しかし本当はアジアの国々を欧米の植民地支配から救うために大東亜戦争を起こしたのだ」と言う説明をマスコミで語ったり本に書いたりする人が出てきました。戦後、結果的にアジアの国々は植民地から解放されたのですが、はたしてそれが本当に日本人が大東亜戦争を始めた理由なのだろうか。私は本当のことが知りたかった。今でもそう思っています。

大日本帝国軍がアジア各地で行った戦争を何も知らされることなく私は教育課程を終えました。その後映画の助監督の仕事をしながら世界を旅し、東南アジアをまわってフィリピンを訪れました。当時私は大日本帝国軍がどのようにアジアを占領統治したのかの一切を知らず、山下奉天大将の名前さえ知りませんでした。戦前からフィリピンに移住していた日本人とその子孫が戦中戦後どんなに苛烈な体験を強いられたのかを教えてくれたのが日系2世のおばあちゃんでした。そして2005年に日系山岳民家族の劇映画「 アボン・小さい家」を制作しました。その後NPOブリッジフォーピースの同志や作家石田甚太郎さんと出会いました。日本兵がフィリピンで行った蛮行の数々を知るにつけ、私たちの父親や叔父、祖父達がどうしてあんなひどい戦争をやってしまったのか、何故やってしまったのかという単純な疑問が消えません。やってしまったことはもう消すことは出来ません。あまりにも苦しいので、何も語らずに多くの退役兵の方々はすでに他界しました。先代がやってしまった罪を戦後生まれの私たちが引き受けていくのはつらいことです。しかし戦争になんの関係もない戦後生まれの私たちも、「日本が何故、何処でどんな戦争をやったのか」を知らなければいけない。日本人はあの戦争のことを学習しなければいけない。なぜならば、あの戦争を始めたのは当時の日本、大日本帝国だからです。そしてあの戦争は人類史上最悪の悲劇になりました。その第二次世界大戦を歴史的に検証し、二度と戦争を起こさないようにするためには、「日本が何処でどんな戦争をしたのか、何故やったのか」を知ることが欠かせない学習だからです。

慰霊祭に何度も参加してくださった中国系比人の郷土歴史家が話してくれました。大日本帝国軍のスローガン「 アジア人のためのアジア」は感動的で多くのフィリピン人が歓喜した。しかし大日本帝国軍がやったことはとても残酷で従えなかった。多くの日本兵の話を聞いた作家の石田甚太郎さんは、日本の兵隊にもひどいことをやらなければならなかった理由があったと言う。食べ物が全くない。武器もない。それに加えて何処から攻めて来るか分からないゲリラが恐ろしくて仕方がない。それで大量虐殺をしなければならなかった、と言います。

戦争末期、学徒出陣で多くの若者がフィリピンに送られました。その時「アジア解放の聖戦」は名ばかりで、兵隊の任務は民間人から食糧を奪い、女子供も殺して家を焼くことでした。そして挙げ句の果てには雨の山中を飢餓状態で放浪し、戦友を食ったり戦友に食われたりしながら、たくさんの兵士が惨めに死んで行った。そんなおびただしい数の若い日本兵のことを考えると私はとても悲しく、いたたまれない気持ちになります。さぞかし無念だっただろうと思う。フィリピン人達も、後ろ手に縛られて井戸に突き落とされた人も、大切なお父さんを目の前で殺された子供達も、さぞかし悲しく無念だっただろうと思う。そして今また、そうした戦争の歴史を掘り起こし記憶しておこうとする作業も、とてもつらい事です。しかし戦争を学ぶことによって人間は凄く成長するのです、とリカルド・ホセ教授が教えてくれました。そのホセ教授の言葉が私はとってもうれしかった。

数年前に亡くなりましたが、実家の隣に住んでいた怖いおじさんは晩年、私の慰霊祭の報告書を読んで涙を流して喜んでいた、と家族の方から聞きました。私たちは死んだ人たちのためにも、そうしたつらい過去を糧にして成長しなければいけない、と思います。

NPO法人サルボン 今泉光司